トランプさんは演説好きで昨夜の支持者集会での演説は予定時間を40分も超過して喋りまくったとか。ここのところホワイトハウスに籠もっていて批判を受け続けてましたから、鬱憤晴らしのセラピー効果があったのではないかと想像します。大観衆とのこういうエネルギーの交換が特殊な心理的効果を生むのはアメスポファンの皆様はよくご存知のことかと思います。これは聴衆にとってもそうですしパフォーマーにとってもそうでしょう。そのイベントがただの野球の一試合、フットボールの一試合ではなく感動のレベルに達するのは観衆のエネルギーがそれを誘導しているからですよね。
TVには映らなかったのですがアリーナは1/3以上の空き席があったそうで、さすがの強気のトランプ支持者も疫禍でかなり勢いが削がれた面はあるようですが、TVで見る限り支持者固めには成功したかに見えました。


トランプさんの強さは言い回しの単純さです。その良さが昨日の演説でも出ていたと思います。日本の方にもわかりやすい例をあげれば、彼は自陣営の人を褒めるときほとんど「Good job」しか言いません。Good jobを繰り返す。たまに「Tremendous job」というのが最上ですかね。過去の政治家が美辞で延々と喋るところをGood jobという誰にもわかる形で短くしか言わない。政敵を表現するときは「very bad people」しか言いません。トランプさんの支持者の大半は学歴の低い白人人口です。彼らにわからない単語を使ってはいけないのです。昨日の演説中でもたまに抽象表現が出てくると観衆の反応ははっきり落ちます。このわかりやすさは聞く側次第で評価が大きく割れることになります。トランプ支持になる理由はいくつもあると思いますが、自身の支持層の特徴をしっかり掴んで話すレトリックは意識的に徹底されたものです。

アメリカ総人口における4大卒の割合は33%とされます。これでも近年かなり増加したのです。根本的に大卒はマイノリティということです。ところがそのマイノリティが社会では偉そうな顔をしてカネを稼いでいる、というマジョリティの不満と劣等感をうまく捉えているとも言えるでしょう。


そういうことを考えていて、今のアメスポは大衆の娯楽だったところから既に大きく外れてしまっているのではないのかということを思いました。マジョリティに単純な楽しみを届けられない存在に変質しているのではないのか、ということです。トランプ的なわかりやすさを大衆娯楽としてのスポーツが失った可能性と言っても良いです。
そもそも当ブログがスポーツに関して理屈っぽいことを散々書いていますが、それ自体が既に大衆の娯楽から外れてしまったことをばかりを書いているのではないか。そういう話題がいくらでもあること自体がアメスポがマジョリティの興味から外れてしまっているという意味なのではないかと。試合のルールにせよ、戦術にせよ、サラリー政策にせよ、社会問題との関わりにせよです。

わかりやすい例をあげればMLBのセイバーメトリクスでしょう。セイバーメトリクスやビッグデータを活用することで戦術は進化(退化という批判をする方もいますが)しました。しかしそれによって敵の投手が剛球を投げ込みそれを我がチームのヒーローが打ち返すという単純な楽しみは、様々なデータや戦術に侵食されてしまっています。配球を読むのも、様々な変化球を見分けるのも楽しいですし、双方が最適解を求めて戦うのもおもしろいとは言えますが、それはその昔のヒーローの活躍を待つ単純な楽しさとは別種のものです。そういう新しい見方を提供することで獲得できたファン層も存在するのでしょうが、実はそれで静かに失ったマジョリティもかなりいるのではないか、ということを昨日のトランプさんのラリーを見ていて感じたわけです。

南部のスポーツの代表格だったNASCARからしてそうですよね。今のNASCARの放送ってすごく分析的な放送をしています。様々な数字がリアルタイムに画面に表示されて、解説もなぜ今の場面が出現したのか空力その他を科学的に説明してくれます。私からすればとてもおもしろいと思いますが、轟音をとどろかせてパワー全開でぶち抜けいけ~的なものはいまのNASCAR放送からはかなり減ってしまっている。MLBの例と同じで新しい見方により獲得できたファン層も存在するのでしょうが、従来いたサイレントマジョリティをケアすることを怠っているという可能性が否定できないかな、ということです。