先日、他の記事にコメントをいくつか寄せていただいて、お返事でいろいろ書きました。その再編成+で一本の記事にします。このブログの仕様ではコメント欄にお返事した内容は検索ができません。過去記事で触れていない情報量がある内容になったと思うのでまとめて再録とします。コメントでヒントいただいた方々には感謝します。

 

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街の通りに出ている看板で少年少女サッカーチームへの登録を呼びかけるものが出ていました。少年野球・ソフトボールの同様の看板やチラシもみかけますし、まだ寒いのですがいよいよ春が来るんだなという感じです。

 

アメリカでのサッカーの普及という話題になると常に出てくるデータとして、世界のどの国よりもサッカーの競技人口が多いのはアメリカである、というのがあります。昨年のW杯誘致運動の際でもアメリカサッカー協会は「米国内には9000万人のサッカーファンがいる」と大々的に喧伝していました。さすがに9000万人という数は誇大宣伝に過ぎで、少年少女サッカーの試合に選手である子供を連れて行った両親兄弟なんかも全部無理やり数に入れたと考えて差し支えないんで、それを「サッカーファン」と称するのはざっくり言ってしまえばイカサマの類ですが、それでも大変な数の少年少女サッカーの登録人口があるのは事実でしょう。

それと同時にアメリカでの観戦スポーツとしてのサッカーの人気が諸外国と比べて著しく低いという事実とのギャップが、海外のサッカーファンから見ると不思議だという話になりがちなようです。なぜそんなに競技人口があるのに観戦スポーツとしてなかなか人気が上がっていかないのか。なぜ大人になったときに他のスポーツのファンとして流れていってしまうのか、という部分について若干の観察を提示してみたいと思います。

 

アメリカ映画で小学生や未就学児がサッカーチームで歓声をあげながらボールを追いかけるシーンを見かけたことはおありになりませんか?ああいうシーンはアメリカのいたる場所で毎年春から夏にかけて毎週末おこっているわけです。

よく整備されたピッチの新緑の上青空の下で小さい子たちが無心にボールを追い続ける。親たちもそれをリラックスしてあたたかく見守る。試合が終わると頬を上気させた子供たちがジュース飲みながらニコニコして親と一緒に緑の上を歩く。そういう風景はアメリカ全土の郊外に住む幸せな中流家庭の家族愛のシーンとして広く定着しています。だからそういうシーンがTVドラマでも映画でもいくらでも出てくるわけです。その素朴さと健康的なムードはアメリカの日常的美徳の一例として記号的なレベルまで定着していると言っていいでしょう。そういうレベルでサッカーはアメリカのスポーツシーンの一断面として確固とした位置をしめてきていると思います。

 

それと同時にデータによれば多くの子供たちは小学校卒業年齢以前にサッカーをやめていくというのがあります。なぜそうなのか。またそれだけの数の子供たちが一度は馴染んだサッカーなのに、観戦スポーツとしてなかなかメジャーレベルに達していかないのはなぜなのか、という疑問が当然浮かびます。

 

その理由を実際に現場で見てみて感じることをいくつか挙げてみたいと思います。

まずサッカーをやっている子たちの親と、例えばアメスポ王道のフットボール(アメフト)をやっている子たちの親のイメージの違いがかなりあるというのがあります。少年アメフトなら親は明瞭にアメフトを将来にわたって自分の子にやらせたいから子供のころからやらせている、というムードが非常に強いです。少年野球もそれに近いか。これは書き表すのがなかなか難しいんですが、現場で見るとそれはひしひしと感じます。フットボールの特性上スターポジションであるQBをやれるかRBをやれるか、それともディフェンスを「やらされてしまう」か、で幼少のころからけっこうなポジション争いもあったり、そういうのは子供本人より親が必死だったりする、殺伐まで言いませんがちょっとしたトゲトゲしさもあるわけです。熱心な親というのはもうほぼ例外なくフットボール経験者でもあり、練習の質に関しても目を向けるような熱心さです。

そういうのと比較するとサッカーの父兄というのはずっとリベラルなムードが強いです。非ジョック(ジョック=スポーツ至上主義的とでも言うか)な感じの親御さんの比率がぐっと高い。母親比率もあきらかに高いです。フットボールと比較したら親が必死にウチの子をスターポジションにみたいなムードは皆無で、全員参加で楽しく走り回って健康にスポーツを楽しんで欲しいというほのぼのムードが強いです。将来にわたってサッカー選手になって欲しいから名指しでサッカーをやっているというわけではなく、どんなスポーツでもいいから子供に健康に育って欲しいという素朴な親の願いをニュートラルな状態で実現する手段としてサッカーがある、そんな感じが強い。スポーツが優先するのではなく、子供の成長が先にあるという感じです。

 

そういう視点で考えると確かに少年少女サッカーはとても良い環境です。アメリカの郊外では数限りなく草サッカー施設が整備されて、主に小学生や未就学児のチームがたいへんな数が存在しています。多くの場合よく手入れされた芝生の上ですから小さい子が転んでも比較的安全で、青空の下健康的で参加コストも低くどの街にでもある。つまり敷居の低い子供向けフィットネスとして地域少年少女サッカーは大いに広がっているわけです。そしてその人数だけあの明るく楽しげなサッカーの風景がアメリカ全土に広がっていることになるわけです。

 

それはそれで素晴らしいことなんですが、これをことスポーツ、競技としてのサッカーへとつなげて行こうとすると、このニュートラルないわばフィットネス的サッカー参加者の意識が逆に妨げにすらなりそうでもあるわけです。

サッカーを競技として捉えて、早くからサッカーの人材を育てる場と考えればドリブルやパスの出し受け、ボール扱いという基本的な技術を教えることが重要になってくるわけですが、これがほとんどうまくいかないという現実があります。どういうことかというと、小学校以下の子たちの草サッカーというのはボールを追って両チームの全員がメダカの学校よろしく固まって走り回るというのがおきまりのシーン。オバマ大統領の娘さんも少女サッカーチームに所属していたそうで、MLSの優勝チームをホワイトハウスに招いての場で「私はサッカー良く知ってますよ。娘がやっていたからね。全員がボールを追っかけて右から左と大移動するスポーツだよね。」とまあジョークとして言っていたんですが、実際のところアメリカサッカー少年たちの親のサッカーの認識もそんなところだと思います。実際それがほとんどの場合ですから。それではどれほど多くの子供がサッカーチームには参加していても、アメリカ全体での技量の底上げにはあまり寄与しそうにありません。

 

ではちゃんと技量をつけさせようとコーチが指導しようとしても、フィットネス需要の親子に「ちゃんと全員ピッチに広がって!パスとドリブルで攻める」という指導してもダメなんですよ。実際そういうのを見たことあるんですが、ボールに全員でたかる相手チームの方が多勢に無勢でボールをどんどん奪ってしまって攻め立てられる一方になってしまうんです。ポジションをコーチから指定されてボールから離れて残されてポツンと立ってる子たちはなんのために自分がそこにいるのかわからないし暇すぎて興味を失います。その親もなぜ自分の子が疎外されているのかわからず不満です。つまりサッカーを教える側の都合を押しつけても勝てもしなければ楽しくもなければ、フィットネスにすらならない。ボールに向かって全員が走っている分には全員がしっかり走ってますから充実感があるんですね。機会均等でもある。それを奪ってしまっては参加スポーツとしてサッカーを選んだ理由自体がなくなってしまうわけ。
逆に言えばそういうサッカーの側の都合を押しつけないからこそ少年少女サッカーの競技人口が伸びているという面も強いのです。

 

このあたりがサッカー国とアメリカの違いで、サッカー国だとチームに所属していなくても(=登録サッカー人口にカウントされていなくても)子供たちが自発的に草サッカーを学校の放課にも放課後にも毎日のようにプレーして、友達と1対1のボールキープやドリブル抜きを遊びとして行っていますよね。

なぜそうなるかというとまず近所にサッカーの上手い年長の子がいてその子のやるのを見よう見まねでやる。またはサッカーのスター選手がTVで華麗にボールをさばくのを見てあんな風にやるのか、とイメージトレーニングして真似事をする。なによりもTVで見るヒーローに自分をなぞらえてプレーする動機がある。そういう自発的な遊びの中から大量の技術を習得していくというのに対して、アメリカの郊外型のサッカーチームにはこれがない。

アメリカではサッカーのTV放送自体が多くないですし、たまに見られる試合でもプレーの意図が見ているだけでわかるような説得力のあるプレーも少ない。お手本となったり憧れの対象になる選手もいない。(女子サッカーのMartaはアメリカ国内で見られる素晴らしいスキルの選手なのですが、いかんせん女子スポーツでは視聴率も注目度も上がりません。もったいないと思いますが。)

また郊外型の住人は親が練習場まで車で送り迎えしてくれないと学校以外ではプレー自体ができないという不利もあります。犯罪がこわいから子供たちだけで遊ばせるのを避けるという社会的な傾向になるのも不利か。サッカーは身体の使い方が他のスポーツとは重ならない特殊なスポーツで、ボールをどれだけ多くの時間足で操ったかが技量に大きく反映するスポーツですが、シーズン制で他のスポーツとかけもちが当然で、サッカーを一年中やるという子が少ないという事情も他国と比較してかなり不利でしょう。と言った様々な理由がせっかくの少年少女サッカー人口がなかなか国としてのサッカーの技量アップにつながっていかない理由になると思います。

また競技レベルのサッカーに届く前にやめていってしまう子たちが多いのは続ける動機不足。子供たちがスポーツスターに憧れる意識を持ち始める頃に目につくのはフットボールやバスケのスター選手たちでサッカー選手ではないんですね。もし世界レベルのアメリカ人スーパースターがサッカー界でも登場すれば事態も変わるでしょうが、現状では動機不足。その結果競技としての魅力や戦術を選手側から見られるまで続けている子が多くないわけです。そのあたりが意識できるレベルまで子供たちが続けていれば、アメスポとの比較で得点シーンが少ないとまま批判されるサッカーの試合でも中盤の攻防なんかを楽しんで見る人もぐっと増えるんでしょうが、それが少年少女の頃にメダカの学校をやっただけではサッカー観戦能力としてまったく足りないのです。

 

もちろん一時的にでもサッカーチームに所属したという記憶は将来のファン層形成には好影響であってマイナスではないです。実際そういうサッカーに触れて育った層が徐々に小学生年齢の子の親の世代になってきて、子供連れでMLSの試合に訪れるようになってきています。MLSの客席のファミリー客の多さは他国とは比較になりません。スタジアムのほのぼの感は高いです。この層を徐々に増やしていくことが観戦スポーツとしてのサッカーの基盤になっていっているとは思われます。(但し実際の商品であるMLSのサッカーの質自体がまだまだ説得力が足りないのが問題ですが)

 

そういうファミリー層とは別に移民一世二世を中心とした海外サッカーを熱を入れて応援する層もいて、この二極分化もアメリカサッカーの特徴で、あまりこの二つの層は重なり合わないのもなかなか人気政策の面ではむずかしいところです。すべてのサッカーファンの興味を惹くのはW杯ぐらい。MLSでは移民層はなかなか納得しないし、移民層と一口に言っても自分の母国関連の放送にしか興味を示さない傾向も強く視聴率的にも五月雨式となって大きな数字にならないという、そういうむずかしいマーケットになってしまっています。

そういう多様なアメリカサッカーファンへの最大公約数イベントとも言えるW杯はサッカーファン統合の数字を出せるようになっていてサッカーファンの総計は伸びているのは確実ですが、W杯に続く売れる人気商品として米代表の試合やUEFA Champions LeagueやMLSが今後十分な数字を出せるようなレベルに育っていくかは一長一短、なかなか見通せないところです。